数学月間から見た教育数学
谷 克彦(数学月間の会世話人)
1.数学月間活動とは何か
日本の数学月間は,片瀬豊の提案で 2005年に日本数学協会が 7/22-8/22を数学月間と定めた
ことに始まります.数学啓蒙活動をこの時期に集中し,数学の重要性を社会にアピールする
狙いです.この活動は,片瀬豊が小林昭七からの情報で長年にわたりウォッチングして来た
米国 MAM(Maths Awareness Month:1986 年上院決議後 4 月 17 日のレーガン宣言により米国
の国家的な行事として開始され今日に至る)に影響されたものです.日本の数学月間をこの
期間に定めたのは,山﨑圭次郎の発案によるもので,22/7≒π,22/8≒e に因みます.小林
昭七によると,時期限定の MAM のほかに,米国では数学サークルという日常活動があるそう
で,これもぜひ手本したいものです.国家的な行事の米国 MAM は,数学系学協会が参加する
JPBM(Joint Policy Board for Maths)が,毎年,社会を反映した数学のテーマを選定し,
この期間(毎年4月)に種々のイベントが展開され,国民からの事後評価も受けます.皆が
知りたいと思う時局の数学を.種々のレベルで学習できるウエブサイトは充実し,エッセイ
や論文が集積され,そのテーマの数学を基礎から最先端まで,学生が独習できる優れたガイ
ドになります.MAM 期間には,一般から専門家まで,小学生から大学生まで,色々なレベル
のイベントが全国で展開されます.レーガン宣言で国家的な行事 MAM を決断した背景には,
国民の数学力が低下し,米国の産業力も低下するとの焦りがあったと思われますが,日本も
同様な状況にあり,国家的な行事の数学月間が望まれます.数学月間発足当時は,片瀬豊ら
が中心に文科省にも働きかけを行いましたが具体的な進展はなく,大学や研究所などの主催
するそれぞれのオープンハウスや講演会などが個別に行われているのが現状です.ボランテ
ィア・ベースの数学月間の会 SGKの活動は,7月22 日の数学月間懇話会の主催や,他の団体
の主催する数学祭り(とっとりサイエンスワールドなど)に協力しています.
2.数学と社会の架け橋=数学月間
数学月間活動がボランティア・ベースである以上,本意ではありませんが活動のメニューを
絞らざるを得ません.数学月間の核心を考察してみましょう.数学月間活動は,数学者のた
めの活動(数学界を応援する)ではありますが,数学者のための活動(数学内輪の同好会)
ではありません.つまり,数学を取り巻く周辺への働きかけです.国民の数学への関心を高
めれば,畢竟,数学者のためになるのだが,現実は,数学者たちの偏狭さと自由思考のため,
献身的な協力は得られていません.
2012 年から始まったフランスの数学啓蒙活動(数学週間)を見てみましょう.数学週間は,
国民教育省の企画の下,“現在の活き活きとした魅力ある数学の提示”,“数学が日常生活で果
たしている重要性の提示”などの5つの目的を掲げ,パートナーと呼ばれる 20 数団体が参加
して,毎年3 月中旬に行われます.毎年,統一テーマが決められます.また,“数学カンガル
ー”,“国内数学オリンピック大会”なども同時開催されます.
他分野の例も比較してみましょう.日本化学会など化学 4団体が,10月23 日を「化学の日」,
この日を含む月曜から日曜までを「化学週間」と 2013 年に制定しました.10 月23 日とした
のは何故か? 高校の化学を思い出すと,なるほどと思い当たることでしょう.そう,アボ
ガドロ数の 10^23 です.化学週間には,全国一斉のオープンキャンパスなどがあり,意匠登
録されたロゴマークを,すべての化学啓発活動に付してビジビリティの向上を目指していま
す.提案4団体だけではなく,経産省や文科省,マスコミ,企業など,産官学一体となった
本格的な活動が立ち上がっています.化学の日イベントは,各地の高校や大学,研究所など
で実施され,月刊誌「ニュートン」,「化学」,「現代化学」,「子供の科学」などへのPR 記事の
掲載があります.
数学研究は孤高で周辺分野との架け橋は必要ないとの見方もありますが,数学の影響は社会
のあらゆる分野に広がり,化学の比ではありません.数学月間活動の呼びかけは数学の外周
へ向けた広い視野の横断的な活動でなければなりません.それにもかかわらず,数学者は,
抽象化されたものを洗練することに熱中し,自ら手を染め現実から数学を抽出しようとした
がりません.物理,化学,工学,医学,社会科学,..のどの分野であろうと形而下には関心
がないようです,抽出された数学は美しいに決まっているが,数学者はその美しさに自己陶
酔し,その源泉である周辺分野への配慮がほとんどないので,国民レベルから数学への共感
を得るに至っていません.
3.数学月間流数学から教育数学への提言
私たちの数学月間は,社会が数学を知ると同時に,数学が社会を知る双方向活動であるべき
だと思います.数学研究会や同好会であれば,数学だけを論じればよいが,数学月間では数
学が働きかける場に立ち数学を見ます.抽象数学であってもそれが使われる場(対象)と連
携した数学の話ならば,数学周辺の人々の共感を得ることでしょう.数学周辺から数学をと
らえる必要があるのだが,数学者はその必要性を感じていないし,数学周辺に付随したもの
に気を散らすことは好まない.しかし,歴史的にも数学の発生起源は,科学技術や社会課題
にあり,その数学概念の発見にも現場の科学者たちが寄与しています.現在でも種々分野の
実験結果や法則の中に新しい数学の萌芽があるに違いありません.教育数学においても,数
学の作用する場(対象)からの数学概念の導入が望ましいと考えます.
4.今年から始めた数学月間勉強会の目指すもの
(1)米国MAM は,今年から,「数学及び統計学月間」MSAM(Maths and Statistics Awareness
Month)となりました.統計学が強調されたのです.複雑系,画像識別,ビッグデータ解析,
レイティングやランキングの予測などが主要テーマとして登場するようになった背景には,
圧倒的なコンピュータ利用と人工知能 AIの発展があります.現代は,衛星からスマートフォ
ンまで大小のソースから,データがリアルタイムで集められます.予測解析法の革新が期待
でき,数学,コンピュータ・サイエンス,データ科学,統計学には実り多い時期です.Google,
Yahoo, Amazon, Facebook, Twitter等々で,私たちのさまざまな情報が蓄積され,携帯電話
も私たちの位置情報を送信しています.嫌なことですが,スノーデンの告発で明らかになっ
たように,個人情報,個人メールを含むあらゆる通信情報が,米国 NSA により収集(collect
it all)され,進歩したAI 技術で検索や解析ができる監視社会になりました.それはともあ
れ,検索,解析,予測での数学の役割は重要です.
データ解析の基本は評価関数に対する最小二乗法にあり,例えば,材料中の化学状態分布図
を得るには,単成分のスペクトルを基底に 1 次結合を作り,最小二乗法で混合状態のスペク
トルを決定(特異値分解を使う)します.大規模行列であるがランク落ちのため不定解とな
る画像の推定は,至る所スパースな解という条件下で最小二乗法に持ち込み,少ない観測点
数でサンプリング定理を超越する驚くほど高解像の解が得られています.天文学や医用画像
などで適用され,MRI 撮影の高速化にも寄与しています.実際,画像は大部分の領域でだら
だら変化し,急峻な変化する箇所は少ない(スパース)ので,このような圧縮センシングや
画像圧縮 jpg が成功しています.離散数学はコンピュータと相性が良いわけですが,教育数
学においても重要性が高いと思います.
(2)私達の数学月間でも定例になった7月 22日の懇話会のほかに,今年から,専門レベル
のメニューも開始しました.このシリーズ第一弾は,「結晶空間群で物理と数学を学ぼう」で,
全 4回[2017 年に3 回終了し,第 4回は,2018 年の 3月]の予定です.
(第1回)空間のデジタル化=結晶空間.並進群,(第2回)点群,
(第3回)並進群を点群で拡大して結晶空間群を作る,(第4回)群表現と性質の対称性
準同型定理の心と,群の直積,半直積や条件積による群拡大の仕組みが理解できます.
従来の数学では,いきなり群を定義してその抽象的な本質だけを取り扱いますが,作用する
対象物があっての数学です.数学月間流の数学では,対象物(結晶空間)に対しての群論な
ので,物理と数学の両法を学ぶことができ理解が深まります.歴史的にも点群や空間群の数
え上げは,鉱物学者の業績だし,デジタル世界の結晶格子は,整数論への貢献も多い.それ
らの科学的業績は数学者には忘れ去られ,数学者は何でも始めから自分でやり直そうとする
ので,数学をますます孤立させています.数学を使う周辺の科学者は数学を勉強しているが,
数学者は関連分野の業績(専門用語くらいは先人と共有したらよい)をもっと利用したら良
いのではないでしょうか.具体的に数学の適用される対象の現場に立って数学を知ることは,
教育数学でも必要なことだと思います.
(注)**********************
群論は,代数方程式の解法に関し生まれ,1770-1832 年代に,ラグランジュ,コーシー,ア
ーベル,ガロアなどが係わっております.同時期に平行して,鉱物学の現場で,結晶の幾何
学から出発して,有理指数の法則[アウイ(1783)],点群や空間群の数え上げがなされました.
3 次元の結晶点群 32 種は,ヘッセル(1830,鉱物学〉,3 次元の空間格子のタイプ 14 種は,
ブラべー(1848,物理学),続いて,3次元の空間群の夕イプが 230 種であることが,フェドロ
フ(鉱物学),シェンフリーズ(数学),バーロー(実業家)により 1885~1894 年代に,互いに
独立に数え上げられました.
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5.研究集会に参加して考えたこと
数学月間活動(Maths Awareness)の意味は,数学が社会の場で共感を得ることであります.
教育数学のプラットフォームは,大学における学生という明確な対象があり,学習効果の評
価も可能なものですが,数学月間活動のプラットフォームは,生徒・学生,その両親を含む
不特定市民(社会の一般人)です.まさに,”ブ・ナロード”という活動です.
九大のマス・フォア・インダストリのコンセプトのうち以下の2点は,数学月間活動とも通
ずるところです.
・数学サイドからの押しつけではなく,応用サイドの要請に応える.
・既存の数学の単なる応用ではなく,数学の新領域を作る.
数学月間活動では,マス・フォア・オールと置き換えれば,根に共通なコンセプトがあるこ
とに気づきます.
社会のさまざまな分野から,その数学を知るという数学月間活動は,実はSTEM 教育と精神は
通じるものがあります.近年,日本でも STEM(科学・技術芸術・工学・数学)教育が叫ばれ
ていますが,これも 2003 年に始まった米国の STEM 教育に源を発します.同時期に日本でも
SSH スーパーサイエンスハイスクールなどの取り組みが始まりました.来年度には,小学校
からプログラミングが教科に入るそうです.今後,ロボット制御,データーサイエンスなど
が次々にカリキュラムに入るのではないかと思います.このようなモノづくりに向けた学習
カリキュラムは数学月間のコンセプトに似ているようです.ただ私たちが主張しているのは,
これらの具体的な応用分野から数学や数理科学を見直すことであり,数学を単に応用しても
のづくり技術を進めることとは視点が少し違います.応用分野と数学の基礎とのつなぎがギ
ャップなく論理的になされることこそが教育数学の構築であると思います.これらの科目の
中で統合的に数学を教えることが必要ですがまだ成功していません.数学月間の視点は,教
育数学と共通し,表面的ではない本物のSTEM教育へ貢献ができるものと思います.
一方,生徒・学生の数学力のボトムレベルの確保は最重要であります.この場合でも,数学
を押し付けるのではなく,集団の学力レベルに応じた指導が成功している事例を知りました.
これも,市民側に立ちその時点で学ぶべき数学を指導することであり,数学月間の精神と同
じです.
6.数学月間活動のこれからと NPO 法人化
現在の日本でも,数学を学ぶ同好会,塾,講習会,講演会などは種々あります.これらも重
要であるのは言うまでもありませんが,我々の目指す「数学月間」活動の主力は,このよう
な数学の内部にとどまる活動ではありません.数学がかかわるあらゆる分野を横断して,数
学を紹介する一般市民に向けた活動です.前回の教育数学研究集会には参加できた片瀬豊(数
学月間の会代表)が,本年(2018 年)8 月 8 日に亡くなりました.謹んでご冥福をお祈りし
ます.88歳でした(奇しくも 8の5つ並びです).
任意団体「数学月間の会」は,2005年の発足以来,ボランティア・ベースながら,毎年,数
学月間の初日 7/22 に,数学月間懇話会を開催し,計 37 件(付録参照)の啓蒙的な講演を一
般市民に対し実施することで,数学啓蒙活動をこの時期に集中し,数学の重要性を社会にア
ピールしてきました.このような数学月間活動は,米国 MAM のように国家的行事として行う
べき性質のもので,個人寄付金とボランティア・ベースで行う現状には限界があります.数
学愛好者の同好会ではなく,活動を社会に波及させるためには,NPO 法人格を得た「数学月
間の会」が,数学の内部にとどまらず社会の諸分野に横断的に呼びかけ活動し,「社会と数学
の架け橋」になることが必要です.
この法人は,一般市民,学生・生徒に対し,数学が社会を支えている事例を,わかり易く啓
蒙する事業を行い,数学への社会的共感を獲得し,社会の数学力の向上,数学文化を普及さ
せ,社会の発展に寄与することを目的とします.
現在,片瀬豊の遺志(NPO 活動への寄付を預かりました)を継承し,数学月間の会の NPO 法
人化に向けて準備を進めています.来年 1 月に成立見込ですので,ぜひご参加ください.数
学が社会からの共感を勝ち取ることは,数学の発展に不可欠な条件で,そのためには,数学
と社会(市民と同義語)の架け橋活動が必要です.数学愛好者だけが数学を楽しむ会ではな
く,数学の外にいる人々に語りかけができる組織が必要です.数学自体を楽しめるのは数学
愛好者だけですが,社会から見て数学がどのようにかかわっているかは,市民のだれもが知
りたいはずです.
数学月間の会の活動は,数学者内部にとどまらず,さまざまな分野で数学を用いている人々
と力を合わせる分野横断的で,STEM教育とも似たところがあります.数学者や数学愛好者は,
広い視野を持って数学の周辺分野に出ていきましょう.この活動は,数学者にありがちな抽
象数学を教えるという上から目線とも違うし,役に立つ数学だけを奨励しているわけでもあ
りません.
社会に呼びかける啓蒙活動は,その対象も不定であるし,成果の評価基準も漠然としていて
やりにくいのです.文科省の 21 世紀 COE などでも,成果の明確でないこの分野は避けてい
ます.このような活動は,米国のように国家的な組織で行うべきですが,数学月間の会はこ
れを傍観することはできません.及ばずながらできる限りの努力をします.それでは,NPO
数学月間の会はどのような方針で活動すべきでしょうか.数学月間の会は,数学者も含め数
学の周辺のさまざまの分野の人々が参加する連絡会の性格であると私は考えます.
日本各所で数学の大衆化を個人レベルでおやりの我々の同志が,たくさんおられることは,
多くの優れたウエブサイトの存在が示す通りです.また,さまざまな数学同好会や勉強会も
活動しています.様々な分野や産業界,例えば,装置設計でも現象物理の記述,モデリング,
シミュレーションが必要で,いろいろな課題に数学を使っている方々が多数います.そのよ
うな方々にも呼びかけます.ぜひ数学月間の会に参加して,力を合わせてそれぞれの活動を
増幅し,社会に浸透させようではありませんか.
数学を学ぶ同好,塾,講習会,講演会などは種々あり,これらも数学月間のメニューとして
重要であるのは言うまでもありませんが,我々の目指す活動の主力は,数学内部にとどまら
ず,数学外部のあらゆる分野を横断連携して,一般市民に数学の活躍の様子を伝えたいので
す.この問題を解決するために,数学月間の会は,一般市民,学生・生徒に対し,数学が社
会を支えている事例を,わかり易く啓蒙する事業を行います.ぜひ活動にご参加ください.
数学への社会的共感を獲得し,社会の数学力の向上,数学文化を普及させ,社会の発展に寄
与することを目指しましょう.
数学月間の会(https://sgk2005.org),問い合わせ:sgktani@gmail.com
付録:数学月間懇話会の記録